2009年 10月 04日
10月4日 運動会のことをボンヤリ考える
鮮明に覚えているのは、高学年の組体操のことだ。
一年目の私は一年生の担任。
子ども達と一緒に座って、運動会の最後の種目、組体操を見ていた。
その時の6年生の学年主任であり、学年を引っ張っておられたのが、今、私が勤務している学校の校長先生であった。
素晴らしい6年生だった。
まさに、子ども達が自主自律している学年だった。
組体操の最後。
子ども達が一斉に「ヤーッ」と声を出し、赤白帽を青空に向かって力一杯投げた。
児童席の最前列で座って見ていた私は、その美しさに見とれていた。
未だに、あの美しさを越える子ども達を育てることはできていない・・・。
そう、美しかったのは、青空に舞う赤白帽であると同時に、子ども達の姿だった。
教師になって、十年ちょっとたった時の運動会。
私は、6年生を担任していた。
6年生と言えば、組体操以外に、全員リレーがある。
その時、私のクラスには、車椅子の女の子がいた。
その女の子が、学級会の場で、こう言った。
「最後の運動会。私も、みんなと一緒にリレーを走りたい」と。
子ども達は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに「いいよ」と笑顔で答えた。
それからが大変だった。
まず、学年で、その女の子の距離を決めた。
当日は、車椅子を押す形で参加させる。問題は、その距離だ。
ストップウォッチを使って、他の子がグランド半周走る時間で何m走れるのかを計測。
その距離で走ってもらうことにした。
それから、子ども達は、こんな話し合いを。
「クラスで作るチームは2チーム。もし、○×ちゃんの走るチームが負けたら、○×ちゃんが何か言われるかもしれない。だから、○×ちゃんのチームにできるだけ足の速い人を集める。絶対、勝つぞ」
私が言った言葉ではない。子ども達の言葉なのである。
次の日から、子ども達は、毎日、給食時間に練習を繰り返した。
休み時間は、グランド全部を使うリレーの練習はできないのである。
だから、子ども達は、給食時間の半分を練習時間としたのだ。
練習後、残り半分の時間で配膳を済ませ、食べ切る。
そして、運動会当日。
○×ちゃんの入ったチームは、一位は逃したものの、僅差の二位。
まさに、大健闘だった。
だが、客席からは心ない言葉が、
「ああ、あの車椅子の子がいなかったら、ダントツの一位だったのにねえ・・・」と。
腹が立って、腹が立って・・・。
「あのなあ、どんだけ、この子らが頑張って、そして、あのなあ・・・」
心の中で叫んでいた。
児童席に戻ると、子ども達は笑顔だった。
「先生、やったよ」と。
勝つことだけが目標なのではない・・・・。子ども達が教えてくれた。
それから、今から、もう8年前になるのかなあ。
最初で最後になるのだろうけど、子ども達と一緒に踊った運動会。
ダンサーの方々と一緒に過ごした3週間。
この時は、5年生を担任していた。
6年生と一緒に、組体操ではなくて、創作ダンスに取り組んだ。
見映えを気にする先生方に対して、子ども達の反応は、
「こんなに、みんなで何かを一緒に考えたのはじめて」
「友達の今まで見えなかった部分が見えてきた」
と、教育のまさに根幹に関わるような発言が出された。
あの時の取り組みが、私の今を支えてくれている。
一番大切なものは見映えなんかじゃあ、ないってことを。
毎年、運動会には様々なドラマがある。
それは、外から見ていては見えないものであることが多い。
運動会は、とても大切な学校行事だと思う。
そんな中、昨日は、今年、違う学校に代わられた先生が見に来て下さっていた。
その先生が、こんな話を。
「うちの学校は5月が運動会なの。楽よ。だって、演技はないの。そんな時期だから。競技だけ。でもねえ・・・」と。
競技会のような運動会。時間は削減できるだろうが、そこにドラマを生まれるのかなあ・・・。