2020年 04月 26日
4月26日 京都の町歩きができるようになるまでに
大雲院 最寄り駅は、京阪電車 祇園四条駅下車
織田信長、信忠親子の菩提を弔うために烏丸二条に創建したのが始まり。その後、豊臣秀吉の手により寺町四条に移転。そして、1973年に現在の東山区祇園町へ。この移転は京都高島屋の増床によるものだった。最後に移転した場所は一代で巨万の富を築いた大倉喜八郎の別邸の一部だった。大倉氏は京都の新たな名所にしようと銅閣の建築を思い立った。その結果、銅板葺きの祇園祭の山鉾をモチーフにした「祇園閣」が誕生した。これが所謂、銅閣。大雲院には、織田信長親子の墓のみならず、大泥棒の石川五右衛門の墓もある。
で、こう紹介すると、豊臣秀吉が何で移転させたのか・・・となる。それは、
寺町通
応仁の乱で荒れ果てた都を整備するために秀吉は街中に点在していた寺院の力を弱めるために、市中のお寺を強制移転、東京極大路に沿って一列に並べ、寺町通の成立。かつて寺町通には、鞍馬口から五条まで約100ほどのお寺が並んでいたと言われる。秀吉が寺院を都の東部に並べた理由は東から攻め込められた時に盾代わりにするためだったとも伝えられている。
寺町通は今もあり、よくブラブラ歩く通りだ。ちなみに、「本能寺の変」で有名な本能寺も、この時の移転で寺町通に移された。だから、今、建っている本能寺の場所は「本能寺の変」があった場所ではない。それから、京都には、「京都三名閣と言われるものがある。金閣、銀閣と・・・?」という問いも子どもたちに出していた。正解は、
*京都三名閣・・・三名閣とは「金閣」「銀閣」「飛雲閣」を指す 飛雲閣 最寄り駅は、JR西日本山陰線 梅小路京都西駅下車
飛雲閣は西本願寺の中にあり、豊臣秀吉が建てた聚楽第の一部と言われている。全体的に非対称な造りとなっており、破風の形が左右で違ったり、窓のデザインが統一されないなど隅々まで意匠が凝らされている。三層から成る。
で、聚楽第とは・・・、どんどん続いていく。
合間に、庭の手入れ。
続きは、また来週の週末だな。