2011年 02月 26日
2月26日 続・穐吉さんとの思い出(5)
2001年9月、今も歴史の1ページに残る、大事件が起きた。
そう、アメリカで起こったテロ事件、今も「9.11テロ」と称される世界貿易センタービルに飛行機が突っこむという前代未聞のテロ事件の発生である。
繰り返し放映される爆発の場面を見ながら・・・・
「まさか、穐吉さん、大丈夫だろうなあ」と、。
すぐにアメリカにFax・・・・大丈夫という返事をいただきホッと一安心したのを今も覚えている。
そんな中、テレビカメラも入りながら、宇治田楽の創作を開始していった。
悪戦苦闘の毎日であった・・・。
当たり前だが、そんなに簡単に創作などというものができるわけがない。
まして、当時の私は、ワークショップというものに対して、無知であった。
つまり、創作というのは、
「教える」という授業では成立しない。
それは、「引き出す」ことであり、「シェアする(共有する)」という活動が必要になるのだ。
そのあたりのことが、まだ、自分の中で整理し切れていなかったのだ。
だから、教師である私は「空回り」する場面が多くあったと思う。
そんな中、ワークショップは何ぞや、ということを教えてくれたのが、野村誠さん(音楽家)であった。
ある日の授業・・・。
私にとって、忘れられない授業場面だ。
授業は、子ども達と、宇治田楽の一場面、コール(声のかけ合い)をどんな風に入れるか、ということを話し合う場面でだった。
私と野村さんは、TTのような形で授業していた。
「何か意見はないかな?」
と、私。
子ども達は、「・・・・・」
と、やんちゃな男の子が手をあげ、ふざけ半分に、
「だったら、猪木コールやろうや!」
と声にした。
あちらこちらから、笑いが起こる。
私が思わず「ふざけるな!」と声にしようとした瞬間であった・・・・。
「それ、いいやん」と、野村さんが、その意見に反応したのだ。
「えっ?」、逆にふざけていた男の子が驚いた顔をした。
「で、さあ、猪木コールやってみてよ。」
「いいよ。」と笑顔になる男の子。
何人かの男子で、猪木コール・・・をやってみせる。
「いいねえ、それ」と、野村さん。
そして、続けて、こう言われた。
「何かさあ、他の言葉も入れてみようよ」と。
その後、次々に手が上がり、コール部分が子ども達の手によって創作されていったのです。
もし、私が、「ふざけるな」と言っていたら、どうだったでしょう?
私と野村さんの力の差が出た瞬間だったのです。
こんな授業を体験した私は、宇治田楽を、子ども達が感じ取った曲のワンフレーズから全て創作させたいと考えていました。
しかし、学年の先生方とは、この部分では、対立することになってしまいました。
「それは、ちょっと無理なんじゃないか」と。
そして、学年の先生方の意見としては、
「基本の踊りの部分は、宇治の田楽に取り組んでおられる方から教えていただいて、それをもとにアレンジすれば・・・・」というものであった。
数日間、話し合いを持ったのだが、最後に私が、学年の先生に案に同意することとなった。
これは、間違っていた、と今は、思う。
学年の先生がそう考えるようになったのは、「私が不安そうにしていたから」の部分が大きかった。
時たま、校長室に呼ばれ、「うまくいくんやろうな」と、言われる私。
若い学年の先生は、呼びつけられ、「あんなんじゃうまくいくわけがない」と、非難を浴びていました。
私がしなければならなかったのは、
校長先生に対しても、学年の先生に対しても、笑顔で、
「大丈夫、大丈夫ですって」と、言い切る余裕の態度だったのだと思う。
さらに、校長先生に対してとらなければならなかったのは、いわゆる「ほうれん草」である。
生活指導の体制で、よく使われる言葉「ほうれん草」。
生活指導はチームで動く。だから、「ほうれん草を忘れるな!」と。
ほうれん草とは、「報告」「連絡」「相談」のことである。
これを欠くと、駄目なのだ。
当時の私は、この観点が希薄であった。だから、デスコミュニケーションを生み出してしまったのだ・・・。
そんな中、何とか、最低限の形になり、運動会を終え、いよいよ、穐吉さんを迎えての演奏会の日が近づいてきました。
(以下、次号へ続く)