2011年 10月 28日
10月28日 大事なことは、いつも子どもが教えてくれる
昨夜のうちに、どう話して、どう聞いて・・・と、決めていた。
本の些細なこと。
だけど、ほんの些細なズレが大きなズレになっていく。
結果、話ができて良かったなあと思った次第。
大事なことは、いつも子どもが教えてくれる。
ああ、そんなことも気がつかなかったなんて、と、子どもの話を聞いて後悔したのは、教師一年目の時。
新任で、1年生の子ども達の担任になった私は、とにかく子ども達が可愛くて仕方なかった。
授業は下手だし、何も分からないし、できないし・・・・、でも、子ども達は可愛かった。
休み時間は、全て、子ども達と遊んだ。
放課後も会議がない時は、いつも子ども達と遊んだ。
子ども達の呼び名も、子ども達同士が使っている呼び名を使っていた。
それで、自分も仲良しの一員になっているかのように思っていた(のだと思う)。
一年が終わる頃、ある女の子がポツンと私に、こう言った。
「先生はさあ、何で、私のことは~ちゃんて呼んでくれないの?ともちゃんやたかちゃんのことは、~ちゃんて呼ぶのに・・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
その女の子は、クラスで「~ちゃん」と、友達からは呼ばれていない子だった。
だから、私もそのように呼ばなかった。
私の子ども達の呼び方は、バラバラだった・・・・。
でも、そんなことは、子ども達の間では当たり前のことだと思う。
例えば、今のクラスだって、子ども達同士の間で、「あっちゃん」と呼ばれている子もいれば、名字の呼び捨ての子もいる・・・。
1年目の私は、何の違和感もなく、少しでも子ども達に近づこうと、それを真似ていたのだ。
ああ、一年間近くも、この子を傷つけていたんだと思うと、いたたまれない気持ちでいっぱいだった。
授業の下手さはすぐにはどうしようもないが、呼び方なんてすぐにでも直すことができる。
それ以来、私は、子ども達の呼び名で、差をつけたことはない。
呼び捨てで通した時は、全員呼び捨てだった。
気の弱そうな、いかにも呼び捨てが似合わない子も、同じように、「あき子!」といった具合に呼び捨てた。
私にとって、この時、子どもの訴えから学んだことは絶対的なものになっている。
ところろが、子ども達の呼び方を同じにしている教師は、意外に少ない。
不思議だなあと思う。
自分に置き換えてみるがいい。
となりの子が、「まあくん」と呼ばれ、自分が「糸井くん」と呼ばれているならば、やっぱり、ちょっぴり先生との距離を感じてしまうのではないだろうか。
そんな繰り返しが、取り返しのつかない大きな溝を生み出してしまうのだと思う。
だから、子ども達の声に真摯に耳を傾けねばならない。
そう、大事なことは、いつも、子どもが教えてくれるのだから・・・。